この度の「東日本大震災」におかれまして被災された皆様に、心からお見舞い申し上げますと共に、
犠牲になられた方々に心からご冥福をお祈り致します。


平成23年度 鰐陵同窓会総会 主管実行委員長 今野 真一(57回生)

 私たちの故郷であり、そして母校である石巻高校がある石巻。2011年、この街に限ったことではないが、誰もが想像のつかないような出来事が降りかかった。下がりきったその頭を気力を振り絞って持ち上げ、なんとか前に進もうとする力がようやく集まりながら、少しずつ復興の兆しを感じさせてくれるこの頃である。しかし、その深い深い悲しみの底から未だに抜けだせず、視えない明日を憂いる方々もまだまだ少なくはない。
 我々57回生は、この年、母校である石巻高校同窓会の主管回生の任を受け、高い志と情熱を持って取り組んでいた。しかしそれを迎えようとした矢先に、あの忌々しい地震と津波が襲って来たのである。
 久しぶりの顔合わせというぎこちない雰囲気の中、石巻駅前の居酒屋で船出した我々57回生同期の実行委員会。回を重ねるごとに緊張もほどけ、高校時代の関係のままに、互いを呼び捨てやニックネームで呼び合うようになっていった。主管回生の事務局長を務めることになった熊倉一徳くんが管理運営する鰐陵57回生のブログを活用し、インターネットで毎回の集まりの様子や顔ぶれを参加できない全国の同期にも伝え、同期全体の連帯感を大切にした。こうして、集っては再会の感激に夢うつつのようなひとときを味わい、その船は進んでいった。
 自分たちが主管回生の代を迎え、自由闊達なイメージ論をつきつけ合う中、まず交わしたひとつの議論があった。それは、日々の中で感じる時代の空気の変化に想いを馳せ、今このタイミングで主管という立場を迎えた我々は、この大舞台をどんな姿で迎えるべきなのか、ということであった。「よいやさっ! 今こそ進運開拓」というテーマを旗に掲げた我々はその副題に“次世代への架け橋”と刻むことにした。時代が変わり行く中、同じ校訓を口ずさんだ石高生の繋がりといえども、その新しい時代の気風を備えた世代が、いずれ次々とこの同窓会の門をくぐることになる。さらには、男女共学化による石高生そのものの変容は、同窓会という集いの風景を、今とは異なったものに少しずつ変えてゆくに違いない。組織はその心として、このことをどう受け入れてゆくべきなのか。そんな小さな疑問が、我々の課題に取り組む動機付けとなった。
 それぞれに日常を抱える45歳の大人が、平日、週末と夜な夜な集まって交わした白熱の議論は、予定の回数では収まらなかった。そして正月の主管回生決起集会を控えた昨年の12月、その核心となる議論はピークを迎え、結果的にはなんと4週連続、つまり毎週に渡って、常に15人を超えるメンバーが彷徨えるテーブルを囲んだ。遠方の同期には、ブログを通してはその議論が見守られ、時にそのテーブルに意外な臨時出席者を連れてくることにもなった。またそこで、久しぶりの再会を悦び、あえて自己紹介もし、眠っていた古い輪が、再び形となって広がっていった。何十年か振りに顔を合わせているという状況にもかかわらず、これから永く引き継がれるべき同窓会の姿について、時を忘れ真剣な眼差しで議論を交わしている皆の姿が、座長としてその場にいる自分には、吹き出してしまいそうになるほどおかしくもあり、また感動的なものでもあった。
 ついぞ越年をしようとした年の瀬、我々はひとつの結論を出すことができた。それは、同窓会総会・懇親会の告知・案内について、これまで先輩方が大変な苦労を持って取り組んでこられたチケットの事前販売による方法は採用しないということ。そして、それに代わるふさわしい告知方法を模索しつつ、主管回生はその周知活動と出席の呼びかけに労を傾けるということであった。
 年が明けた1月2日、これまで遠くから行方を見守ってくれていた同志も続々と駆けつけ、57回生約70人が石巻グランドホテルに集まり、主管回生の決起集会となる成功祈念同期会を開催した。これまでの交わされたありとあらゆる議論や考え方、想いを一つのものとした実行委員会の熱意を同期全体の総意として一致団結すべく、また、そのことを語り合うための貴重な場であることを、皆が認識をしていた。57回生はあらためて全体がひとつになり、肩を組み声をあわせ拳を上げた。「卒業して27年、石高の仲間はすばらしい…。」僕は心の中で思った。
 四十半ばにして同窓会の主管回生の責を担うシステムというのは、予想にも出来ないことを人生に刻んでくれる。45才というのは、働く会社や営む仕事のそれぞれの現場や社会において、それなりの責を預かり、また家庭では妻や子を持つ家族の軸となる、まさにそんなお年頃だ。気持ちは卒業した高校からとっくに巣立ち、人によってはその街からも離れ、今のちっぽけな自分のあり様にしか自尊心をもてないただの半端な大人でしかないのだ。そんな大人ぶった中年に、ふと“自分はいったい何者であったのか?”という問いを投げかけてくれ、その明快な答えを呼び起こしてくれる。そうだ、僕はまぎれもない石高健児であったのだ。
 また我々は、度々に渡り佐藤佑同窓会長を訪ねては、稚拙な発想を相談事としてもちかけた。傍若無人になりがちな我々に、いつも適切な助言をくださる佐藤会長の度量には、ただ敬服し、己の若輩さを省み、そしてその自省の念を次の議論の糧にした。そうして各自が、ハレとなる盛夏のその日を夢見、また多いに酒も酌み交わしつつ、鰐陵の同窓であることの悦びをかみしめていった。あの日が来るまで…。
 「鰐陵」の22年度版の出版記念パーティから間もない3月のあの日、強烈な大地の揺さぶりと、岸の向こうから大挙と化して現れた暴君に襲われ、そしてほとんど全てが奪われてしまった。57回生の主管回生プロジェクトも、そのままテレビ画面の砂の嵐となった…。
 覚めない悪夢から抜け出せないような現実の中、同期の実行委員の誰もがそれぞれの暮らしの立て直しに精一杯の日々を送っていた。何しろあの状況の中で、同窓会がどうこうだなんて誰かに話すことは、苦しみや悲しみの究みに喘いでいる人や、多くの困難を迎えた人に無配慮なことであり、今、仮に自分に余力があるとするならば、やらなければならないことの優先順位はもっと他にあるのではないかという自覚すらもあった。何度も集まっては“次世代への架け橋”のあり方を熱く語り合った時間のことなどは、頭に置く余裕など全くなく、カギをかけた箱に入れて、すっかり心の外に置いてしまっていた。今はとてもそんな場合じゃない…。
 同窓会をどうするべきかの葛藤が…。なんて、もし今そんな言い方をするのならば、それは相当にカッコウつけになるだろう。自分が実行委員長という立場であるにもかかわらず、「大変な年に主管を迎えてしまった。このままだと中止になるんだろうなあ…」なんて思っていたのだから。…事実、僕は逃げていた。
 日常を失い、明日への暮らしをようやくつないでいる日々の苦労から、ほんの少しは心の余裕が生まれそうな気分になりかけた5月の中旬、事務局長として縦横無尽に活躍してくれる熊倉くんから電話が入った。彼はこの年になっても大食いで巨漢だが、繊細で思慮深くまた情熱的なオトコでもある。「カイチョウ(不肖な私の高校時代からのニックネーム)、例の件、そろそろどうすっか考えなきゃいけないんじゃない…」「どうするって?熊倉?主管回生だからって、これは俺たちが決めることだと思うか?」もちろん同窓会のことである。“中止にしたい”“やる方向で”などという言葉はどちらの口からも出てこないまま、「とりあえずは同期の仲間、みんなの顔を合わせる機会を作ろう」、そう話し合って電話をきった。
 5月の某日、立町の居酒屋に同期15人が集まった。再会中の再会である。半年以上熱い議論と酒を酌み交わしてきた仲間達だ。それぞれの無事の対面に誰もがホッとし、あの日からそれぞれが抱えていた家族や仕事の苦労から少しだけ解き放たれるような時間であった。まずは運ばれてきたビールで乾杯…!?…おい、ところで乾杯っていいのか…?…ま、とりあえず乾杯をしよう。数ヶ月の時を戻したかのようにすぐにその場は和やかなムードになり、仲間の顔はどれも紅く染まっていく中、いったい今日は何の話しで集められたか、なんて質問をするやつは一人もいなかった。ほどなく、あの時からの近況報告コーナーを一人ずつ始めることになった。熱く結ばれたとはいえ急造の“再結成ユニット”であるこの仲間たちにとって、あれ以来、誰がどんな状況で、そして今、どんな心境なのかを知らなければ、どんな顔で何の話題をしてよいのかわからないというのは、当然といえば当然のことだ。一人、そしてまた一人と、全員が話すのにはずいぶんと長い時間を要したが、退屈な話などは一つもあるはずがなかった。壮絶なるその時の様子、そしてその後の奮闘ぶりをそれそれが順に語り、その辛さを表す語り口とそこから微かに見える前向きな面持ちに、全員が箸を置いては、時に目を瞑り、また涙しながら聞き入った。高揚した仲間の気持ちは一つだった。我々は、どうあるべきなのか…。
 誇り高き石高同窓生として、大きなダメージを受けた石巻という街に対して何を想い、また何をすべきなのか。そして、今この困難な状況の中でも、我々の巣立った学び舎では、母校の後輩となる現役石高生が、将来の夢や希望の実現に向けて、懸命になって文武両道の実践に取り組んでいる。紅顔可憐な後輩一人ひとりが、必ずやこれからの石巻、東北、日本を支えるかけがえのない復興の光となるのに違いない。
 「進運開拓」を心に刻んだ我々鰐陵男子。悲しみをこらえ、辛さに耐えて戦う石高生に想いを馳せる中、鰐陵男子にとっての普遍のモットーでもある「自ら進運を開拓すべし」という言葉が、この時ほど自らの心の中のカラを破り、沸きたってくることはなかった。今、我々が牽引役となり行動をおこすことが、次代へ伝えるべき鰐陵同窓生としての意地とプライドの表現となり、伝統あるこの鰐陵同窓会という組織こそ、貴重な架け橋としてその意義を発揮できるものになるのではないか。また、時を経た旧友同士の再会の場こそ、健やかなる姿をまぶたに写し互いの無事を心から喜び合う機会として、貴重なものになるはずである。そして、みんながひとつになって、この無念の悲しみを追悼しよう。
 司会を務める熊倉くんが、まぶたに涙を溜めながら叫んだ。
 「石巻のために、…がんばっている石高生のためにも同窓会をやろう!!」ほとんど涙声であった。我々は我々の強い意志を固めた。同窓会を開くんだ。
 「復興へ 鰐陵集結!  今こそ進運開拓!」 
 新たなテーマを旗上げし、この年の鰐陵同窓会総会・懇親会は始まった。母校への愛情と現役石高生へのエール、参集の同窓生のみなさまの無事と健康を心から喜び合い、石巻の街とそれぞれの復興と復旧を祈り、そして慈しみと無念の悲しみに鎮魂をこめて。
 総会・懇親会の開催のお知らせは、同窓会員への案内状をもって通知したのみであったにもかかわらず、予想を超える同窓生の出席をいただき、盛会のうちにその幕を閉じることが出来た。鰐陵同窓会の連帯力とプライドをあらためて実感し、また、暦年に渡り主管を引き継いでこられた先輩方のバトンリレーの中に、我々もようやく参加できたという満足と悦びを感じた時でもあった。そして、ほんの小さな出来事かもしれないけれど、困難が引き続く我々の街に、何かを残すことができたのではないかという気分にもなれた。「石高の仲間はすばらしい。」僕はまた心にそう刻んだ。
どうにかその責を収めることが出来、今あらためて、任命以来ご指導いただきました同窓会執行部や先輩のみなさま方には心よりの感謝を申し上げます。バトンを手渡した58回生には、この一年の実りが多きことを祈年するばかりです。
 時は移り12月、年末恒例となった“今年の漢字”、その一文字が発表になった。
 「絆」…。 「震」に脅かされ、「波」に奪われ、「難」を避けられず、ひたすら「忍」を強いられたこの一年。未だ被災の難と忍の真っ只中にいる被災地では、日本中、世界中の温かき人の心に触れた感謝は言うまでもなく深いものとして残るだろう。今はまだ手放しで“絆”に明るい希望を見いだせる状況ではない方々が、まだまだたくさんいることを思うと、心の痛みがやむことはない。しかしその見えない“絆”を信じて、そしてこれからもこの“絆”の一員として、次の“希”を見つけていかなければならないのだと、今思う。
 私にとってかけがえのない固い絆のひとつ、それが、石巻高校同窓生の“絆”。
 がんばろう石巻!がんばろうじゃないか鰐陵健児!
 いまこそ進運開拓の時きたり。